丘の会発足
定住者が増えだした頃から、何ヶ所かに分かれて最寄りの家に集まり、週1回ほど、小原先生の話を聞く会がもたれるようになった。その組織に1933年(昭和8年)、「丘の会」との名称がつけられたが、必要に迫られ、地域での暮らしにかかわる活動(今日でいえば町内会的な活動)も行なうようになった。初代会長は大島義脩、その後橋本順三、田中七次郎、小川重太郎、高尾英輔といった方々が会長を引き受け、昭和30年代まで活発に運営された。
当初から居住者は不便や不自由を承知の上で住み、旺盛な開拓者魂で戦前戦後の困難に対処しつつ、この地域の基盤を築いてきた。丘の会の組織力は、地域社会の営みに大きな役割を果たしたといえよう。
付言すれば、丘の会はその後1960年代後半になると(一部の役割を町内会に引き継いだこともあって)活動が少なくなったが、1974年(昭和49年)に「玉川丘の会」として、改めて、新たな結成をみた。「玉川学園地区発展のための文化的事業を推進する」ことを目的とし、文化講演会・講座の開催等をしてきている(2008年からは休会中)。
町内会の誕生
学園と住民が一緒になって長く歩んできた「丘の会」だったが、急速な住民の増加もあってその役割も変わらざるを得なくなってきていた。そこで丘の会の機能の一部を引き継ぐかたちで新たな組織が結成されて、1962年(昭和37年)、玉川学園町内会が誕生することになった。当初の会員数は937世帯。発足当時の資料が失われてしまって詳細はわからないが、役員には小川重太郎、中田正喜、名越覚十郎、上野一など、戦前から戦後にかけて、丘の会をはじめとする住民組織で地域を支えた方々の名前が記録されている。
町内会会則の改正と
新たな運営のスタート
発足後15年を経て、町内会も会員が増加し期待される役割も大きくなってきた。それにつれて会長をはじめとする役員選出の方法や総会の定足数など、これまでの会則には不備な点があることも明らかとなった。改正審議会で討議を重ねるとともに、会報を通じて広く意見を求めるなど慎重な審議が進められ、1977年(昭和52年)の臨時総会で改正が議決された。
新しい会則では、会長が任命していた役員を会員の意思によって選出する仕組みとなり、この結果、幹事と呼ばれる役員は各地区選出と全地区選出の両方から構成されるようになった。また総会の定足数をこれら役員の少なくとも2倍を超える70名とし、役員会が独走しないようにした。こういった新たな運営方法の前提として、会則に町内会の設立目的をはっきりと規定し、あわせて防災部を新設するなど各部の構成も改められた。
改正後初めての総会には今までにない120名近い多数の出席者があり、改正後第一期の会長には中村露子氏が選出されている。